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閑山島歌への新しい考察

***閑山島歌への新しい考察***


李舜臣将軍は優れた詩を多く残しました。
韓国内では色々な論議が醸し出されているこの閑山島歌もその一つです。
(他の将校が書いたという説も有りますが)

以下は全羅道地域文化の現案と代案というセミナーで発表された「閑山島歌」に対する再考証だそうです。
この閑山島歌の原本が公開される前は「閑山島歌は閑山島で書かれたもの」という見解でしたが、考証されたものを見ると寶城(ポソン)郡で閑山島を憂いながら詠んだ詩となっています。

いずれにしても李舜臣将軍の深い心、感受性は普通の人とは違いますね。



閑山島歌は韓国人が一番よく唱える詩の一つだ。

「太陽が照らす道で」という本でイ・ウンソン先生は、李舜臣将軍が閑山島に陣営を立て、大勝を繰り返していた時期である1595年8月15日秋夕の頃に詠んだと紹介している。本来はハングルであるが、200年前李舜臣全書を編集するに当たりあえて漢文に翻訳して載せたという。

しかし1998年イ・ジョンハク独島博物館館長が公表した閑山島歌の肉筆原本を翻訳すると、

寒山島月明夜 上戍樓

撫大刀 深愁時何處

一聲羌笛(門+月)添愁



寒山島の月明かりに櫓に上がり
長い刀を撫でながら深く憂ているとどこからか
笛の音が聞こえて、また深い憂いを感じる




丁酉年8月15日 乱中日記(閑山島歌を詠んだ時)

「15日、夜中降っていた雨は夜遅くやんだ。
食後にヨルソン櫓に座っていると宣傳官パク・チョンボンが王の密書を持ってきた。
8月7日に作成されたものだった。パク・チョンボンによると領議政が京義地方を巡視中であるという。
すぐさま密書への返事を作成した。寶城の倉庫を開け、王に献上する物資を4匹の馬に乗せた。
白い月が屋根の上に差すと、とても心が落ち着かなかった」


李舜臣将軍は丁酉年4月1日に獄門を出て、8月3日白衣従軍中に再び三島水軍統制師になり、水軍と廃船を収集し戦争の準備をしていた。

その過程で寶城郡 鳥城面にある物資倉庫の食料を確認、守備させ、寶城郡のヨルソン櫓に来て、御史のイム・モンジョンに会い報告を上げた。

次の秋夕の日、ヨルソン櫓に座っていると宣傳官パク・チョンボンが来て、王の密書を持ってきた。

学者達の考察によるとこの密書の内容は、水軍と戦艦が壊滅状態にあるので残りの兵力を権葎将軍の陸軍に統合し、協力するようにと言うものだった。


これに将軍は報告に「尚有十二 微臣不死」という文章を上げた。
絶対君主時代に王命に背くということは、数ヶ月前に投獄されていた立場としては絶対に考えられないことではあるが、ひとえに純粋な護国精紳から書かれたものであると推測される。

閑山島歌の最初の「 寒山島月明夜上戍樓 撫大刀深愁時」にある「深い憂い」とは「水軍解散 陸軍協力」の密書に対するものだった。


まさにこの日が丁酉年の秋夕だったことから、戦争中ではあるがあちこちで聞こえてくる夕べの笛の音が心に染みた。そして3年間全力を傾けて備蓄してきた閑山陣営が、1ヶ月前に元均の敗戦で日本軍の支配下に置かれたことを思い、明るい月が出ている東方の空の下にある閑山島が思い出された。

大きな刀を振りかざそうと触れてみたが、そのような状況ではないと言う気分のなかで、秋夕の笛の音は心痛かった違いない。
閑山島歌の「更添愁」という一節はまさにそういう心情だ。


文字を解いて見ると乱中日記上では「閑山島」の「閑」の漢字は「閑」である。しかし閑山島歌では 「(門+月)」、詩の題名の「寒山島」は朝廷の水軍解散して陸軍協力せよという密書を下す朝廷の大臣達の情けなさを将軍の護国精神から表現したものと見られる。



韓国語付きはこちらから(画像もアリ)

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